ラメッシ・バルセカールの『誰がかまうもんか』によれば、ラマナ・マハルシは神は人の腕の上げ下げまでも決定していると話したといいます。
私はマハルシがどこでそんなことを言ったんだろうかと疑問に思い、『あるがままに ラマナ・マハルシの教え』を再読しました。
そこでは全く同じ表現ではないものの、論旨と表現が非常に似た箇所を見つけたのでそれを書いておきます。
質問者 人の人生において、彼の国、国民、家族、仕事、職業、結婚、死などにおける顕著な出来事が、彼のカルマによってすべて宿命づけられていることは理解できますが、しかし彼の人生の詳細すべてに至るまで、取るに足らないことまで、すでに決定されているのでしょうか? 例えば、今私は手の中の扇を床の上に置きました。それはこの日、この時間に、私がこのように扇を動かし、このようにここに置くということまで、すでに決定されているということなのでしょうか?
マハルシ もちろんだ。なんであれこの身体がすること、そして何であれそれが通り抜ける体験は、その身体が存在を現したときにすでに決定されているのである。